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ブラック企業を下支えする日本文化の精神性について
今回は大きな、そして深刻な社会問題になっているブラック企業についてです。
ブラック企業とは、従業員に対して、劣悪な環境での労働を強いる企業*1のこと。広義には入社を勧められない企業のこと。
問題がこれだけ顕在化しているのに、なぜブラック企業は無くならないのでしょうか!?
競争が激しいから、労働基準局が機能していないから…、もちろんそれらの理由もあります。しかしそれだけではなさそうです。
それではこの問題の本質に迫りたいと思います!
もくじ
サビ残・過労死なんてあり得ない!
世界の国々ではサビ残=サービス残業なんてあり得ません。まして過労死なんて更にあり得ません。
こう言うと「アメリカではエリート層はメチャクチャ働いてるよ」って反論されることが多いのですが、彼ら・彼女らは働けば働くほど自分の利益になるから働くだけのことで、そこに自己犠牲的な労働観など微塵もありません。
また、世界では(労働者側から見て、図らずも)サビ残や過労死が発生している場合もあると思います。しかしそれは過酷な農場で酷使されているような場合です。
働かされている人たちは嫌々やっていることなのです。
日本人のように妙な精神性で進んでやっているなんてことはないはずです。
労働はそんなにありがたいことなのか!?
自己犠牲的な労働観・日本的な労働観、それは勤労の美徳に代表される「働くこと自体がありがたい」というものですが、美徳とあるようにそれは美しいことですらあります。
いっぽう世界的には、特にキリスト教圏の西欧諸国では「労働は神に与えられた罰」という考えかたがあります。なので働かなくても良いのなら、なるべく働かないことを選ぶ人が多いのです。
働くことと自我がイコールか否か
こんな話を聞いたことがあります。外国のある国で、蒸気機関車が電車に取ってかわることになったとき、労働争議に発展、鉄道会社側は石炭夫を解雇できない状況になり、石炭夫をそのまま雇い続けることにしました。
新しい電車には当然ながら石炭をくべる蒸気機関はありません。しかしかつての石炭夫を解雇するわけにもいかない。…しかたがないので電車内の大して重要でもない電気系統をただ監視する閑職として元・石炭夫を雇用し続けたのです。
これは日本でもありそうな話ですが、しかし石炭夫のメンタリティが全く違います。日本人ならそんな閑職は耐えられない、忸怩たる思いを抱えることがほとんどですが、諸外国でははそうではないのです。
ほとんど働かなくても賃金がもらえる、これを降って湧いた幸運だと考えるのです。
しかし多くの日本人はこう考えることができません。働くことと自我がイコールになっているのが悲劇の元である気がするのです!
上と下との共犯関係
ブラック企業の経営者は日本人の「勤労の美徳」や「自己犠牲は美しい」という心性を利用し尽くします。
ありとあらゆる無茶を仕事と精神論をセットにして従業員に押し付けます。
この精神論と「社内の空気」この2つが非常に厄介です。そして従業員もそれに呼応するかのように、当たり前のように受け入れてしまいます。なんせ幼い頃からの有言・無言の「勤労の美徳」を刷り込まれて育った人がほとんどです。周りを見回しても「勤労の美徳」を疑う人など誰もいません。
すると「勤労の美徳は間違ってないな」と誰もが判断しします。
だけどそれ、間違ってますから!
もっと周りを見回して下さい!
周り=世界を見ればサビ残や過労死なんて日本だけの超異常事態ですから!
そして更にまた別の要因もあってブラック企業から抜け出すことが難しくなっているのです!
オレが抜けると皆が苦しむ…
…だから辞めるに辞められない、ブラック企業を抜けよう=辞めようとしても、こんな心理で抜けられなくなっている人を私はたくさん知ってます。
これは「勤労の美徳」「自己犠牲の精神」「空気読め文化」…そのどれとも違う理由です。仲間想いのその精神は素晴らしいのですが、ちょっと待って下さい!それではいつまで経っても誰もがカゴのなかの鳥になってしまいます。
「個人」と「自由」に大きな価値を置く私からすると、ひとりひとりがこのおかしな状況にいち早く気付いて積極的に何らかの行動を起こすべきだと考えます。
もちろん経済的理由で会社に縛られて身動きが取れない人もいるでしょうけど、ひとつ言えること、それはそうやって現状を「追認」することでブラック企業の思う壺になってしまうということです。
どこかでこの負の連鎖を断ち切らなければならないのです!
もっと勝手に生きたらいいんです!
日本人は自己犠牲が大好きです。勝手に大好きな分にはまだいいのですが、彼ら・彼女らにとって自己犠牲があまりに素晴らしい価値観なのか、しまいにはそれを他人にも強制してくるからおかしな話になるのです。
私は「組織」と「個人」では、圧倒的に個人が大切だと考えます。
しょせんどんな組織だろうと、個人がより良く生きるための方法論であり仕組みに過ぎないのですから。
以前、ホッブズの世界観で話しましたが、国家という組織でさえ極論すれば単なる方法論であり仕組みに過ぎません。なのにその組織(この場合はブラック企業)に抑圧され、最悪は過労死に至るなど本末転倒も甚だしいのです。
だから誰もがもっと勝手に生きたらいいんです。やみくもに人に迷惑を掛けろなんて言ってません。「私も勝手に生きる、だからアナタも勝手に生きてちょうだい」…乱暴に言うとこうですが、これを美しく言えば「私は自由に生きる、だからアタナも自由に生きて欲しい」こうなります。
自分が苦しくなったら自分が楽になるほうを選べばいいだけです。この程度の「勝手」で良いのですが、これができない人が多すぎる!
しかもこんなことを主張すると「それじゃあ社会が成り立たない」とか「秩序が崩壊する」と言う人が必ず出てきます。
だけどそもそも論として、ブラック企業で過労死が続出するなんて相当不健全な社会ですからね。そんな社会ならさっさと崩壊したらいいし、そんな秩序も崩壊したほうが幸せというものです。
だから今苦しんでいてこの文章を読んでいる人がいたとしたら、少しずつ勝手に、自由に生きて欲しいと思います。
物理的・経済的自由と精神的自由
世界的に見てサビ残や過労死が異常極まりない事態であるにも関わらず、日本だけはそれが当たり前の日常になってしまい、今も日夜苦しんでいる人が大勢いることに危機感を覚えます。
しかしネットの世界でいろんなブログを見ていると、かけがえの無い子供との時間をとるためにブラック企業を辞め、収入が減ってもスローライフを選ぶ人が増えています。
また…、
ってのも面白い動きです。
もちろん環境的・経済的にそれが可能だったからということはありますが、彼ら・彼女らに共通していること、…それは鋭い問題意識で「日本の常識」を疑い、対決し、自分なりに道を切り開いたことではないでしょうか?
今回のような問題提起をすると必ず「しかたがないんだよ」「みんなガマンしているんだよ」って答えが返ってきますが、私そういう思考停止が大ッッッ嫌いです!
そうやって全てを諦めて現状を追認するから、いつまで経っても何も変わらない。
だからまず気付くことです「こんなのおかしいだろう!」と。
経済的にがんじがらめになっている人も多いと思いますが、そんな人でも「おかしい」と思うことはできるはず。
精神的自由まで手離したら人間としておしまいです。
まとめ
今回は常日頃から私がおかしいと思い続けている日本文化を超辛口で厳しく批判しましたが、いかがでしたか?
ブラック企業が日々増えて栄えている原因は「競争が激しいから」「労働基準局が機能していないから」などがあります。しかしそれは表面的なことに過ぎません。真の原因はそこじゃない。
日本文化特有の「美しい」精神性に起因することがたくさんあるのです。
そしてその「外」にいる悪辣な経営者はそこを逆手に取って利用するのです。
しかしそれよりも手に負えないのは「みんながそうしているから」とか「そうするのが大人ってもんだよ」なんて分かった風なことを言う、他でもないサビ残や理不尽な労働に苦しんでいる側の人たちなのです!
経営者側、人を利用する側が言うなら分かります。
しかし面白いことに(恐ろしいことに!)、利用される側が勝手にそう言い出すのです!
その精神には誇りも問題の本質を見抜く力もありません。ただの抜け殻のような精神です。私はそれがたまらなく嫌なのです。
ブラック企業の問題に話を戻すと、こういう精神的かつ構造的な問題をどうにかしないと、法規制を強化したところで陰でまた同じことを繰り返すだけだと私は危惧します。
そうならないためには、ひとりひとりが自分の頭で考えて誇りを取り戻すより他はないと思います!