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世の中は流転する…!地方・都市、そして家族の変遷史 その2
前回は世の中の住宅事情と地方・都市の変化についてお話ししましたが、今回は少し切り口を変えて家族・家庭にスポットを当ててみます。
個々の家庭が集まったものが「社会」なのでその変化も見ていきますが、今回は主に人々の精神的な変化についてお話しします。
もくじ
実家がない問題…!
郊外の不便な家を処分して市内のタワーマンションに移住とかじゃなくても老人ホーム入居時に家を処分するケースもあります。そうするといつの間にか「実家がない問題」に直面します。
都市部で働いてると元気なうちは「実家? いいよ、好きに処分したらw」ってなもんですが、経済的・肉体的・精神的に弱ったときに帰る場所がありません。
これは今までの歴史のなかでちょっと無かった話じゃないでしょうか? 実家は長男が継ぐものだし長男じゃなくても誰かが継ぐものだった。実家に縛られるツラさはありますが「ベースキャンプ」として実家が機能していたのです。
「実家があって当たり前」のときは考えもしないし、なにかあれば「実家に帰ろう」くらいの気持ちが意識・無意識の両方にあった。しかしその実家はとうにありません。
効率を追い求めるあまりセーフティーネットまで無くしてしまったと言えなくもありません。
「とらや」の存在意義
実家の良いところは「厳密に定員が決まっていない」、これですw
4人で住んでるところに1人転がり込んでも、まぁなんとかなる。家族なら雑魚寝でOKです。和室なら布団を2枚敷いて3人で寝るのもアリです。
そして田舎の家々では多少の畑を持っています。土地が安いですからね。家族が食べるくらいの畑なら、なんてことありません。
しかし同じ田舎でも新興住宅街のように「住」に特化した家だと畑はありません。普通に住む分にはシンプルで無駄がないのですが、セーフティーネットの観点からは郊外の家にはかないません。
また、実家には「男はつらいよ」のとらや(主人公・寅さんの実家)のように「いつ帰っても誰かいて受け入れてくれる」という安心感があります。しかし実家を処分してしまうとその安心感も同時に手放すことになります。
時代は変わった
こうなると「没落したとき」じゃなくても、お盆やお正月に帰る家がありません。その辺のファミレスで兄弟で会おうかって話になりかねません。
もちろん「長男の家に集合する」とかでも良いのですが、例によって「住」に特化した家なので家族分の部屋しかありません。遠方なら近くにホテルをとることになります。和室で雑魚寝もできません。
もっとも、プライバシーだなんだって話で「実家で雑魚寝」なんて流行りません。だから「私たちはホテルに泊まります」…これで良い気もします。
このように事例はさまざまです。なので正解・不正解をここで言いたいのではなく良くも悪くも「時代は変わった」ということを言っておきたかったのです。
外注化する家庭内サービス
また、実家住まいであればおじいちゃん・おばあちゃんがセットで付いてくるケースがほとんどです。そうすると子守りやご飯をお願いできます。こんなのつい数十年前まで当たり前だったのに今は特別なことになりました。
これを社会的に見ると、
- 外食(中食も含む)産業、コンビニ
- 保育園
- 不動産
- 家具
- セレモニーホール
- その他
…などの業界が潤うことになります。
今まで家庭内でやっていたことの多くが外注になりました。外食はもちろん、最近では「中食(なかしょく)」も盛んです。昔、食事はほぼ全て家庭で手作りしてましたからね。時代は変わったのです。
保育園不足も大きな社会問題です。そもそも少子化ですよ、今の世の中は!それなのに保育園不足という現状がある。女性の社会進出も原因のひとつですが「じいちゃん・ばあちゃんがいない家庭」が増えたことが真の原因ではないかと思います。
また、多くの人がひとり暮らしをすることで不動産需要が増えます。それに伴って家具類も売れます。そして今日び、ひとり暮らしをするのは若者だけではありません。実家を処分するということは3世代同居だったら全ての世代が別々の家を持たなければならないわけですからね。
私がパッと思い付くだけでもこれだけの変化があるのです。他にもたくさんの変化があると思います。
ああ、悲しき外注産業
外注のお話し、終わったように見せかけて続きますw
マジメな話、あえて項目を分けたのには訳があります。私はこれが大きな社会問題だと感じるからです。
先ほどの保育園不足は「顕在的な社会問題」です。これには大きな関心が払われます。政府レベルでも「なんとかしなきゃ」が見て取れます。しかし「潜在的な社会問題」である「ひとり暮らしの寂しさをどうするか」という問題にはあまり関心が払われていません。
しかし高齢化社会だけではこの問題は発生しません。家族同居じゃないのが当たり前になってきた社会だからこそ発生する問題なのです。
お年寄りでも元気なうちは出かけることができます。趣味のサークルにも参加可能です。しかし家にこもりがちになると人との交流がなくなって孤独になるんだと思います。
何ごともそうですが問題があるからこそ、それを解決するサービスが生まれます。こういうサービスが発展するのは間違いないと思います。また「家事代行」もさることながら「話し相手」や「人の温もり」が欲しくて呼んでいる人もいると思います。いつの時代も人間の本質は変わりませんからね。
強い家族・弱い家族
いわゆる「自由の代償」
家族がバラバラに暮らすことで自由を手に入れたのと同時に、さまざまな不都合も出てきました。
近代化には「個人」と「自由」の概念が含まれます。私は近代化バンザイ論者だし個人や自由を尊重します。先にもお話ししましたが泊まる実家がなくて「私たちはホテルに泊ります」これでいいと考えるほうです。
しかし家族が離れて暮らすと物理的・経済的・精神的に弱くなります。
逆に家族の生活圏が同じであれば、さまざまな助け合いが可能です。
こんなのひと昔前ならわざわざ言うことじゃない話でした。しかしつい最近、つらつら考えてハッとしたのでお話しする次第です。
適度な距離感が大切!
さて、私が言う「強い家族」ってのは、その辺を意識的・無意識的にわかっていて、家族がバラバラにならないように適度な距離をとって生活しています。これは地方でも都市でもそうです。同居じゃなくても生活圏が同じであれば子供をおばあちゃんに預けられるし、お金がなくても実家でご飯を食べられます。
今の時代、親に余裕があるとは限りませんが「弱ったとき、ちょっと助けてもらう」…それだけで復活する可能性が出てきます。
私がこよなく愛する脱力系社会派雑誌・SPA!でもよく特集されていますが、実家から離れた大都市で暮らしていると失職=ただちにホームレスになりかねません。これはリスクが大きすぎます。
しかし実家が近ければ…
…職が見つかるまでの間「食わせてもらう」ことが可能です。「いい大人が食わせてもらうなんて恥ずかしい」…こういう考えや間違ったプライドの高さで人生台無しにするより、家族の機能に助けを求めるべきです。
また、いくらお金があっても精神的に脆弱(ぜいじゃく)なら意味がありません。精神力は人それぞれですが、ある程度は「仕組み」でフォローすることができるはずです。家族が近くに住んでいること自体が「仕組み」になり精神面のフォローもしやすいのです。
なお、強い家族はデイビット・レアーという人の言葉のようです。私は自分の家族や友人の家族を見回して、なんとなくそんな言葉を思いついたのですが…、既にこういう言葉があるんですね。
レアー氏の著書を読んでみたいのでさっそく検索しましたが、出てきませんでしたorz
まとめ
2回に渡って地方・都市・家族、そして社会を見てみました。そもそもこんなことを考えるようになったきっかけ、それは地方の電車に乗って車窓に広がる田園風景を見ていたときのことでした。「あの広い屋敷には何人が住んでいるのかな」…このように思考がはじまったのです。
家は暮らしに密着しているが故に、暮らしが変われば家のあり方も変わります。そして個々の家が変われば社会も変わる…。
社会の変化とはつくづく面白いものですね。
- 田舎の家は冠婚葬祭も対応可能だぞ!
- 核家族化で「住」に特化した家が増えたぞ!
- コンパクトシティは住人・行政の両方にメリットがあるぞ!
- 実家無しは精神的にキツイぞ!
- 家庭内サービスの外注化で社会も大きく変化したぞ!
- 適度な距離感を保ちながら強い家族を形成してほしいぞ!
- ピンチのときこそ家族の機能に助けを求めるべきだぞ!